聖書のみことば
2023年4月
  4月2日 4月9日 4月16日 4月23日 4月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

4月9日主日礼拝音声

 復活
2023年イースター礼拝 4月9日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ヨハネによる福音書 第20章19〜23節

<19節>その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。<20節>そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。<21節>イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」<22節>そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。<23節>だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 ただ今、ヨハネによる福音書20章19節から23節までをご一緒にお聞きしました。
 19節に「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」とあります。「その日、すなわち週の初めの日」と言われています。弟子たちはその日、一日中を大混乱の中に過ごしました。始まりは早朝です。弟子の一人であるマグダラのマリアが主イエスのお墓参りに出かけました。深い悲しみをたたえて向かったのですが、行った先で激しいショックを受けることになります。何とお墓の入り口が開いていて、穴の中に横たえられたはずの主イエスの遺体が無くなっていたのです。マリアは一目散に駆けて行って、ペトロともう一人の弟子にお墓の現状を伝え、彼らも急いでお墓に出向き、確かに知らせのとおり、お墓が空であることを確かめました。

 けれども、これはまだイースターではありません。お墓が空であることには、いろいろな理由が考えられるからです。しかしこれは、決して手放しで喜べるような事態ではありません。主イエスのお体が見当たらないのは、由々しき事です。
 同じ出来事を伝えるルカによる福音書の記事では、主イエスが復活なさったという知らせを聞いた弟子たちが、「この話がたわ言のように思われた」(24章11節)ので、それを信じようとしなかったと語られています。「お墓が空である」、だからと言って、それが主イエスの復活にすぐに繋がるわけではないのです。そういう意味で、今日聞いている記事の中で「お墓が空である」ことを知っていたはずの弟子たちが、「自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」閉じこもっていたことも分からないではありません。19節には、それが「ユダヤ人を恐れて」いたからだと言われています。
 けれども弟子たちの恐れは、それだけではなかったかも知れません。たとえば、弟子たちは主イエスにどこまでも従って行くと伝えていましたけれども、実際にはイスカリオテのユダの手引きによって主が捕らえられた時、誰も主イエスの許に留まりませんでした。その事実は、弟子たちにとってずっと気がかりな、また、心残りなことだったに違いありません。
 しかし、主イエスが本当によみがえられたのだとしたら、弟子たちは一体どう感じたでしょうか。ただ気がかりであるとか心残りであるという以上に、「主イエスにはとても顔向できない。主イエスとは顔を合わせられない」という気持ちになったのではないでしょうか。「お墓が空になっている」と聞いた時、弟子たちが単純に喜んだと考えるのは、いささか早計です。弟子たちはむしろ、大変複雑な思いになったに違いありません。「墓がもぬけの空になっているというのは尋常ではない。そんなことはないと思うけれど、もし本当に主イエスが生き返ってどこかを彷徨っておられるとしたら、自分たちのところにもやって来るかも知れない。早く死体が見つかって欲しいものだ。こんなことが何日も続いたら、頭がおかしくなってしまいそうだ」、そのように恐れる気持ちがあったかも知れないのです。

 従って、墓の入口の戸が開いて中が空っぽだったことで、直ちにイースターが訪れるのではありません。そうではなくて、「復活なさった方が自ら現われてくださることによって」、「この方が確かに生きておられることが人々に示されることによって」初めて、イースターは訪れるのです。
 このことは、復活なさった主イエスが目の前に現われているのに、最初、弟子たちが、目の前の方がどなただか分からなかったことを告げる聖書の幾つかの箇所からも聞くことができます。たとえば今日聞いている直前の箇所で、マリアが復活の主イエスにお会いする場面があります。マリアはその時、確かに復活の主イエスとお会いしているのに、そのことに気づかないで、主イエスのことを園丁と勘違いしてしまいます。20章15節16節に「イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。』マリアは、園丁だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。』イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である」とあります。マリアは、主イエスが「マリア」と呼びかけてくださることによって初めて、復活の主と出会ったことに気づきました。そしてその時に、イースターが訪れているのです。あるいはルカによる福音書24章に語られる、エマオに向かっていた弟子たちの記事でもそうです。生まれ故郷のエマオに向かって行く弟子たちに復活の主イエスが現れ同行なさいます。ところが弟子たちは同行者が誰であるかが分かりません。それが分かるのは、夕食の時になって主イエスがパンを裂いてくださった時、その特別な仕草で主イエスだと気づくのです。
 このように、主イエスの方から共に歩んでくださり一人ひとりの名を呼んでくださる、あるいは食事を共にしてくださることで、弟子たちは初めて、主イエスが復活しておられることを知るようになります。そしてそこに、イースターが訪れるのです。このことは、今日お聞きしている記事でも同じです。主イエスが弟子たちの許を訪れてくださり、親しく声をかけてくださるのです。釘跡の残る手と、槍で突かれた跡のあるわき腹を見せて、確かに主イエス御自身であることを示しながら、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃってくださる、そのところで、弟子たちにイースターが訪れるのです。  主イエスは御自身の傷口をお見せになりますが、しかしそれは弟子たちに恨みがましいことをおっしゃるためではありません。主イエスを見捨てて逃げ去った弟子たちを叱るためでもありません。むしろ、「平和があるように」とおっしゃって、主イエスがもたらしてくださる平和の内に、弟子たちを包み込んでくださいます。弟子に裏切られ見捨てられて十字架にお架かりになり、苦しみ死なれた方が、それにも拘らず、弟子たちの罪を救し、平和の下を生きるようにと挨拶してくださる、そこにイースターが訪れるのです。

 従って復活の出来事は、よく分からないうちに、いつの間にか罪が赦されていたということではありません。復活の主イエスは、黙って来られるのではありません。御自身の救しをはっきりと現すように、挨拶の言葉を一人ひとりにかけながらやって来られます。その挨拶は、以前から弟子たちが何度も耳にしてきた挨拶の言葉です。「あなたがたに平和があるように」、主イエスが使っていたアラム語で言うと「シャローム」という言葉です。「シャローム」は特別な言葉ではありません。ユダヤの人々は今日でもお互いが行き合うと、「シャローム」という言葉で挨拶します。従ってこの挨拶は、特に深い意味もなく口にする挨拶の言葉でもあり得ます。
 しかしまた非常に真剣に、心の底から責任を感じながら、この挨拶をすることもできるのです。主イエスが弟子たちに向かって「シャローム」とおっしゃる時には、主イエスは、父なる神の御心を心に留めて、心の底からこの挨拶をなさいます。たった一言の「シャローム」という言葉の中に、「本当に、神さまの平和があなたの上に訪れるように」という深い思いが込められているのです。なぜならば主イエスは、弟子たちが神に赦されている者として本当の平和を生き始めるために、十字架によって弟子たちの罪をすべて御自身の側に引き受けてくださる、そういう役割を果たす救い主としておいでになったからです。まことの平和を人間にもたらすために、主イエスは十字架にお架かりになって、その苦しみと死によって人間の罪と過ちのすべてを清算してくださり、それによって私たち人間に新しい命をもたらして下さいました。「シャローム」という挨拶は、主イエスが十字架によって「まことの平和」を弟子たちに、私たちにプレゼントしてくださった、そのしるしです。

 そして、罪を赦され神の平和の中を生きるようにされた弟子たちは、新しい一つの責任を帯びて生きていくようになります。主によって罪を赦された弟子たちは、主から頂いた平和の中を生き、その平和を伝えながら、平和をもたらす一人ひとりとして生きてゆくという責任を帯びることになるのです。
 主イエスは、「平和あれ」という事柄を強く重ねておっしゃいます。21節に「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす』」とあります。主イエスは十字架によって、弟子たちの、人間の罪と負い目を清算してくださり、「あなたは赦された者として、もう一度ここから生きてよいのだ」と教えて下さいました。それがイースターの喜びなのですが、その喜びを知らされた弟子たちは、今度は、この世の罪と過ちに向かい合い、そこに本当の赦しと平和を持ち運ぶようにと遣わされるのです。弟子たちは、神の愛を伝える者、神の慈しみを知らせる者、そして、「どのような場合にも、あなたはここから生きてよいのだ」ということを告げ知らせる者とされています。即ち、「永遠の命、永遠のシャロームを宣べ伝える者」として立てられてゆきます。
 主イエスの十字架の赦しは、その一度限りで途絶えたのではなく、主イエスの赦しを知って喜び、慰められ、勇気を与えられた弟子たちによって受け継がれ、世界中の隅々にまで持ち運ばれてゆきます。そういう弟子たち、また、代々のキリストたちの働きがあればこそ、最初のイースターから2000年を経た今の時代に、またユダヤの国とはユーラシア大陸を隔てた反対側の島国で生きている私たちの許にも、主イエスの十字架とその御業による赦しが伝えられているのです。
 私たちは、弟子たちが主イエスの平和を告げ知らせる働きをしてくれたことによって、そこから始まって世界中に広まった「神の平和」の一端を受け継ぐ者とされています。

 ところで、そのように弟子たちによって主イエスの平和がもたらされたのであれば、私たちもまた、ここから、イースターを知らされた者の一人として生きてゆくようにされるのではないでしょうか。最初の弟子たちは主イエスを裏切って逃げた人たちです。けれども、その至らなさや心無さにも拘らず、主イエスによって罪を赦され、「シャローム。あなたがたに平和があるように」という言葉をかけられて歩み出しました。そして弟子たちが歩み続けたのは、弟子たちに特別な能力が備わっていて、特別上手に伝えることができたからということではありません。弟子たちは、「わたしは貧しい者でしかないけれど、しかし確かにわたしは、主イエスの十字架によって赦され、神の平和の中を生きるようにされている」ことを信じて、素朴にその生活を生きていきました。そういう弟子たちによって、この世の隅々にまで「神との平和」がもたらされているのです。
 主イエスは弟子たちに、「まことの平和を生き、多くの人々を赦しと命に導く」、そういう務めを与えてくださいました。私たちもまた、同じ務めを与えられています。

 主イエスは弟子たちをこの世にお遣わしになる時に、一人ひとりに聖霊の賜物を分け与え、一人ひとりを力づけ、装って下さいます。22節23節に「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」とあります。「罪を赦すこと」、そしてそこに「自分が赦され生かされているのと同じような平和を持ち運ぶこと」、弟子たちはそういう務めを与えられながら、一人ひとりの生活を生きていきます。 そしてそういう生活に入る人は、聖霊がその人に働いて清められ、豊かな実りをいただいて生活をするということが始まります。聖書には、その実例としてガラテヤの信徒への手紙5章22節23節に「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」と語られています。ここには、聖霊が働いてくださった結果、キリスト者の生活に生じる豊かな実りが列挙されています。主イエスは、御自身がもたらしてくださった真実な平和、「どんな場合にも、そこからもう一度生き始めてよい」ことを告げる、神の慈しみを伝える生活に弟子たちを遣わすに当たって、丸腰で行かせるのではありません。何よりも主イエス御自身がいつも弟子たちと共にいてくださり、御言葉をくり返し聞かせてくださりながら、弟子たちの歩みの上に豊かな実りをもたらす聖霊を与えてくださるのです。
 このような聖霊の実というものを、私たちは教会生活を通じて幾分かでも経験させられているのではないでしょうか。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と主イエスは言われます。私たちもそうですが、すべての主の弟子たちは、イースターの使者としてこの世に遣わされてゆきます。

 弟子たちが遣わされるのはどうしてでしょうか。まさにこの世が、平和の事実を必要としているからです。私たちが過ち易く失敗を重ねがちだとしても、神がすべてを受け入れておられ、「もう一度、ここから生きてよい」とおっしゃってくださる、その神の言葉を、私たちは本心から聞かなくてはならないのです。もし、その神の御声を聞かないまま過ごしてしまえば、物事が順調に進んでいるうちはよいのですが、上手くいかなくなったり困難に直面したりするとき、私たちは自分自身に嫌気がさしたり、自分を責めてしまうようになって、破滅してしまうのではないでしょうか。今日たまたまラジオで聞いたことですが、若い人たちが真剣に自殺を考えた割合が45パーセントにもなるという調査結果がニュースに流れていました。真剣に死を考えるほどに追い詰められている人が二人に一人いるというのが私たちの社会なのです。
 神はこの世界の中で、上手くいっている人たちだけを御覧になっているのではありません。弱い者、貧しい者、過ち易い者たちをも御心にかけてくださいます。そして、「それでもあなたは、ここから生きてよいのだ。平和の中を生きるように。シャローム」という言葉をかけてくださるのです。神はこの世界の造り主であり、すべての人の命の源である方として、どんな人であっても生きることを望んでくださいます。ですから、弟子たちはこの世に遣わされていくのです。

 自分の身の回りが取るに足らない場所だと感じることがあるとしても、まさにそこで「あなたは生きてよい。あなたは平和のうちを生きるのだ」という言葉が語られなくてはいけないし、私たちは真剣に、真心から聞かなくてはなりません。
 イースターの知らせから遠ざかれば遠ざかる程、まことの平和、本当の赦しが訪れていることを証しする教会の声はか細くなります。声がよく聞きとれないところでは、人はその結果として、すねたり、絶望したり、確かな寄り所を失って無軌道に歩んでしまったりします。またそういう生活の中では、命を否定しようとする死の声が迫って来て、圧倒されそうになることもあります。命の勝利の声が弱まると、人間は死の衝動に支配されてしまうことになりかねないのです。
 そうならないために、イースター知らせは最初の一度限りで終わるのではなくて、繰り返し携えられ持ち運ばれるようでなければなりません。
 今日の日本では、多くの人々が死の衝動にさらされて、困難と貧しさの中に放置されています。一方では、そういう貧しさに目を塞ぐかのように、自分だけの豊かさにしがみつき、ひたすら贅沢を楽しんで過ごそうとする傾向も見られます。社会全体の貧富の差が広がり多様化しつつある中で、私たち全員が一つの群れとして神の前に生かされていることが忘れ去られていき、他の人が労苦していることに共感する感覚が鈍くなっていきます。そういう中では、人間関係も粗雑になって荒れ果て、言葉づかいや乱暴な行動、また自分さえ良ければよいと思ってしまう…、周囲への無関心の中に、そういう兆しを見つけることができるのではないでしょうか。

 そうした現代社会の闇と病に対して、ここには、世界をもう一度ここから創り始める主イエス・キリストの力ある御支配が語られています。20節に「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」とあります。
 弟子たちは主の傷を見て喜んだのではありません。自分たちが裏切りそのために深く傷ついたお方が、もう二度とお会いできないと思っていたお方が、それでも自分たちのところに来てくださり、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださり、平和の中を生きるようにと招いてくださっている、その出会いに勇気づけられ喜んでいるのです。神がすべてを受け入れて、「もう一度ここから生きてよい」とおっしゃってくださる、その知らせが真剣に聞かれ、信じられるところでは、そこに責任を伴った喜びが溢れてくるのです。
 「弟子たちは、主を見て喜んだ」、「わたしの主は、イエスさま、あなたです」、そう言って弟子たちは喜んだのです。釘跡の手をかざし、深い槍傷を示しながらも、力強い平和の挨拶をしてくださる主の御言葉に耳を傾けることに勝って重大で緊急なことが、今日の私たちにあるでしょうか。

 世界には戦争の噂が聞こえています。疫病が私たちの周りに蔓延しています。けれども、わたしたちは今日、死に向かって生きるのではありません。「今、あなたは生きるのだ」という主イエスの言葉を聞かされているのです。「あなたは責任を持って、ここから、平和を生み出す者として生きてよい。あなたは今、死に向かって生きているのではない。今を生きることを赦されている者として、命の主の招きを聞いて、ここで皆と一緒に生きるのだ」と教えられています。
 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。あなたがたもこの挨拶をして歩んでいきなさい」という主イエスの御言葉を聞き取り、歩んでいく者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。

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